ITエグゼクティブ・フォーラム IT JAPAN 2013 最終回

世界で戦うということ ~ 元プロ陸上選手 為末 大氏


特別講演のタイトルは「世界で戦うということ」です。


とうとうIT Japan2013最後の講演になりました。
長らくの間、この3日間の講演の模様をレポートしましたが、日にちもだいぶ経過してしまった
こともあり、後半の内容はだいぶ記憶が薄らいでしまっていました。
文章も取り留めもない箇所がいくつかあったことをお詫びいたします。


最後の為末氏による講演は今回の講演の中でも楽しみにしていたものの一つです。
IT Japanでスポーツ選手が話す内容はそれだけでとても興味深い物です。
スポーツ観戦が好きな私ですが、マイナー競技ということもあり為末氏の
情報はほとんど無い状態での聴講となります。

運動神経と運動能力という2つ要素


為末氏はまず、運動には運動神経と運動能力という2つ要素があるということを述べました。
この2つの要素によって得意な運動種目が決まるというのです。
同氏は運動能力が優れていたということであったが、運動神経については
どちらかというと人より劣っていたとのことです。運動神経が優れた人はサッカーや野球などの
選手に適しているそうで、陸上選手は運動能力が優れた人たちが多いということだそうです。


為末氏の中学時代はかなりすごかったと自身でも言っていました。100m、200m、400m
いずれも中学生ランク1位であったそうで高校時代も順調に記録を伸ばしていったと言います。
しかし大学生になって記録が伸び悩む時期がきたそうで、この時期に記録を伸ばしてくる
人たちが多くいて焦ったと話していました。
そして同氏自身が同学年の選手よりも早熟であったのだと、この時になって気づいたそうです。


世界陸上ジュニア選手権敗れた時に100m走の日本代表選手が世界では
全然歯が立たないことを痛感してしまい、これによって100m走に興味を失ったと言います。
そして他の競技を何気なく見ていたときに、ハードル競技との出会いがあったそうです。
為末氏は決勝を走っている人たちのハードルの飛び方が全然なっていないことに気がつきます。
そしてこの競技なら勝てるとひらめいたそうです。


さらに競技自体をリサーチするとそのひらめきは確信へと変わったと言います。
「ハードル競技は複雑な駆け引きがあり、人種も偏りがあった。」
黒人選手が少ない競技だったのです。


こうして為末氏は400mハードルに主戦場をうつしたのでした。
ここで為末氏は「世界で戦って勝てるものを選ぶ」ことも重要だと語っていました。

スランプについて


そして為末氏は大学へ進んでからのスランプについて話をしました。
当時、伊藤浩二という100mで10’00の日本記録を持った選手に憧れていたそうです。
そしてこの選手のフォームを真似ようとしてしまうのです。


その結果、為末氏はフォームを崩してしまったのです。
後になってわかったことは、「例外を真似してはいけない」ということだそうです。
「成功者には原因があるのだが実際はそれがなんなのかを特定することができない」と言っていました。
人は迷信を作りたがるのだそうです。
伊藤選手は普通に独特な走りをしていただけで、それによって早く走ることができたのは
伊藤選手だけだったのでした。


そして為末氏は、自分がどうやって走っていたのか(基本は無意識で走っているそうです。)忘れてしまった
のだそうです。考えてしまうことが悪いと考え、それを克服するために別の事に集中することをしたそうです。
腕と足に鈴をつけてその鈴の音だけを考えて走るようにしたというのです。
これによって何とかスランプを脱出することができたそうです。

2000年シドニーオリンピック


そして2000年シドニーオリンピックに代表選出されます。この時のレースがスクリーンに映し出されました。
予選で先頭を走りながらも9台目のハードルを引っかけてしまい転倒していまったレースです。
この時、競技場ではひどい強風が吹いていました。日本の競技場ではこのような強風がふくことがなかったと言います。
ハードル競技は、風の状況によって2?3cmは歩幅が変わってしまうものなのだと為末氏は説明しました。
通常日本の選手は1台目のハードルまでが何歩、2台目までが何歩と飛び越えるまでの
歩数が決まっているのだそうです。8台目までは何とかなったのですが、9台目を飛び越えるときは
踏切ヶ所がだいぶ手前になってしまいハードルに接触してしまったのです。


「世界で戦うためには強風に対応できなくてはならない。」と為末氏は後になって思ったそうです。
そしてこの教訓がのちの世界選手権の2つの銅メダルにつながったのだそうです。

グランプリ大会への参戦


シドニーオリンピックの翌年、為末氏は世界でのレース経験を積むためヨーロッパで
開催されているグランプリ大会への参戦を目指します。
しかし、何のつてもない同氏は唯一日本で開催される大阪の大会会場に赴き
エージェントとおぼしき人たちに名刺を配りまくったと言います。


後日、あるエージェントから「3日後にイタリアの大会に出れるか」との連絡があったのだそうです。
連絡の内容を大まかに理解した為末氏は、とるものもとりあえずイタリアへ旅立ちます。
そこで結果がでて賞金を獲得したためか、そのエージェントによる手配でヨーロッパで
4戦する経験を積むことができたのです。
帰国後、連戦の疲れのために調子を崩すのですが、翌月の世界選手権では見事に銅メダルを獲得します。


これについて為末氏は超回復の時期とタイミングがあったのだそうです。
ヨーロッパ転戦というハードスケジュールをこなした後、この疲労のピークを迎えるのだが
その後の練習を続けることで疲労と回復を繰り返しながら、回復のピークのタイミングが
一致したのを感じたそうです。


これによってオリンピック、世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダル獲得となったのです。

次の頂をめざすこと


そして為末氏は次の頂をめざすことになります、それは次の山である銀メダルを目指すことだと。。。
これは競技を続けていく限り必ずついて回るものだと言っていました。


しかし、その後の為末氏はなかなか結果が出せずに長く苦しい時期を過ごすことになったそうです。
自身を追い詰めるために所属していた会社を辞めプロ宣言をしたのもそのためでした。


本来はハングリー精神を失わずに、なりふり構わずでなくてはならないのですが、
成功体験があることでそれが重石になりテンションを維持するすることが難しくなるのだそうです。


実際にスポンサー探しをした際に「今の為末さんには価値が無い」と言われて
なりふり構わないといった姿勢が失われたていたことに気付かされたと言います。

もう一つの銅メダル


もう一つの銅メダルは2005年世界陸上ヘルシンキ大会でのものです。
この時準決勝では、8位通過でギリギリの状態であったといいます。
決勝では5、6位になるだろうと自己分析していたのですが。。。
決勝の前に豪雨となったのです。待合所には情報が届かなく中止になるか
どうか選手はみな疑心暗鬼の状態だったそうです。


そしてこの雨の中レースが行われました。この時為末氏はチャンスだと思ったと言います。
タイム的に3、4位くらいになりそうな選手が若い選手であったからです。
しかも為末氏は第8レーンでした。400mハードルの場合最初のハードルを飛んだ時点で
自分の視界に入る選手を見て自分の順位を確認するのだそうです。
自分より遅いと思っていた選手が早かった場合、あせってリズムを崩すこともあるのだそうです。
特に第8レーンは一番外側のために、他のレーンからの視界に入りやすいのです。
その時為末氏はその状況を冷静に分析しスタートダッシュで最初のハードルをMAXのスピードで
飛ぶことを決めたそうです。


そして実際多くの選手がタイムを落とす中セカンドベストのタイムで銅メダルを獲得したのでした。
為末氏はいう「続けていれば、失敗は生きる。どういう姿勢で生きて行くかが重要なのだ」と。。。

最後に


最後に為末氏は「現役の時は社会にインパクトを与える選手になりたいという野心をもっていた。
第二の人生ではパブリックを持つスポーツ選手を育てて行くという志をもっている。」と講演を締めくくりました。


半年にもなる長い間こちらのレポートにお付き合いいただきありがとうございました。